広島1泊2日旅行記の「(5) 広島城の大本営跡、福島正則にまつまる石垣、中国軍管区司令部跡を見学」です。
前後の旅行記もあわせてご覧ください。
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- 広島1泊2日旅行記 (5) 広島城の大本営跡、福島正則にまつまる石垣、中国軍管区司令部跡を見学
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ホテルグランヴィア広島をチェックアウト
目覚めて時刻を確認すると、12:05。昨晩暖房つけたまま、ベッドに横になってそのまま寝てしまった。チェックアウト時間を過ぎている。
もう呉行きはなしだな。
部屋を出る準備。12:15にフロントからのコール。なるべく早めに出ますのでチェックアウトを遅くしてくださいというと、13時までには出てくださいとのこと。
窓の外を見ると快晴。
13時にチェックアウト。延長料金のことは何も言われなかった。
荷物を預け、広島空港行きのシャトルバスの場所を聞く。時刻表をくれた。夕方はかなりの頻度で出ているようだ。
食欲がわかないので、昼飯は保留。
広島城の大本営跡
タクシーでまずは広島城に向かう。日清戦争時に大本営が広島に一時移転していて、その時の建物の台座がまだ残っていると知り、それを見たかった。
これだ。
広島は、第五師団司令部が置かれた軍都であると同時に、近くに海軍の呉鎮守府・呉軍港が置かれ、広島市の南部には宇品という良港があった。また、神戸を始発とする山陽鉄道が日清戦争開戦直前の一八九四年六月に広島まで開通した。そのため、山陽鉄道とすでに開通していた東海道線・日本鉄道を使うと、仙台(第二師団所在地)・東京(近衛と第一師団所在地)・名古屋(第三師団所在地)・大阪(第四師団所在地)を経由して、青森から広島までが鉄道で結ばれ、軍隊の輸送が著しく効率化した。この結果、広島は、日清戦争では朝鮮・中国・台湾に向かう軍隊の出征基地となり、戦争の進展とともに東京から大本営が移される。
九月一三日、明治天皇と侍従長・宮相・参謀総長熾仁親王以下の大本営幕僚は、新橋から鉄道で広島に向かい、一五日夕刻一行は広島に到着した。広島大本営は、九月一五日から翌年四月二六日までの七ヵ月余り、広島城内の第五師団司令部に置かれることになる。
引用はともに『日清戦争 近代日本初の対外戦争の実像(中公新書)』(大谷正)。
そして、翌月には、第五師団西練兵場に建設された仮議事堂で第七臨時議会も開催される。七ヵ月余り、広島は「首都」だったのだ。
広島城。原爆ドームから900メートルほどしか離れていない広島城が残っているわけはなく、1958年に鉄筋コンクリート造で復元された城。
福島正則改易の原因となったといわれる石垣
天守閣には登らず。
それより、元和5年(1619年)の福島正則改易の原因となった石垣が残っているそうだし、「吉川積」とよばれる毛利氏独自の摘み方の石垣もあるようなので、そちらを見に行こう。
ということで、それらしきものを探しに行ったのだが見つからず。天守閣に戻って、受付の人にヘルプを求む。上にいた学芸員さんを呼んでくれた。
求めていた石垣は、天守の北側。堀と天守の間の通路(腰曲輪)にあった。
腰曲輪を西から東に歩いていくと、石垣の雰囲気が変わる。
石の大きさも大小ばらばらで、表面も凸凹している石垣。
この木を境に、石の大きさもある程度揃って、表面がツルッとしている石垣に。
学芸員さんによれば、毛利輝元時代の「野面積み」から、福島正則時代の「打込ハギ」の変化を物語っているらしい。
そして、これが福島正則が「幕府からの正式な許可無く修繕して、その後、武家諸法度違反に問われ、破却した」石垣だそうだ。
改易に至る事情を『日本歴史叢書 広島藩』(土井作治)から紹介する。
「太田川が氾濫して大洪水」も、昨日見た太田川放水路の川幅の広さを考えると、なるほどと思う。そして、本多正純・・・お前か(笑)
中国軍管区司令部跡
この後、本丸の南に移動。
護国神社の脇に、半地下式の中国軍管区司令部の防空作戦室跡がある。ここに目を向ける人はほとんどいない。第五師団が改組を繰り返して、中国軍管区司令部になった。
通風口のようなもの。
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