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旅行記

那覇1泊2日旅行記 (3) 那覇の護国寺の「宮古島島民遭難事件」の碑から沖縄の帰属問題を考える

那覇1泊2日旅行記の「(3) 那覇の護国寺の「宮古島島民遭難事件」の碑から沖縄の帰属問題を考える」です。

これより前の旅行記とあわせてご覧ください。

那覇市若狭にある護国寺へ

11時にフロントからのコールで起こされる。掃除の必要性の有無の確認。冷房つけっぱなしで寝ちゃったのでのどが痛い。冷房消して二度寝して、13時に起床。今日も日差しが強そうだ。

14時半位に外出。今日の松山交差点。

松山交差点の日差し

若狭の波上宮(なみのうえぐう)の近くの護国寺に、「台湾出兵」の原因になった「宮古島島民遭難事件」の碑があるらしいので見に行くことにする。

昨晩、まりもに「明日は波上宮の近くにあるらしい護国寺に行こうかと思ってる」と言ったら、「奥武山の護国神社じゃなくって?護国寺?謎」と言われたが(苦笑)

護国寺は波上宮のホント隣りにあった。

波上宮の隣の護国寺

護国寺の山門。写真撮ってるそばから日焼けしそう。

高野山真言宗 護国寺の山門

昨日訪れた崇元寺の石門は沖縄戦後でも奇跡的に残っていたが、護国寺については、建物・仏像・資料等全てが消失してしまったようだ。

護国寺は波上宮の別当寺(神宮寺)だったようだ。

波上宮が隣接しており、創建より(神仏分離令が発布された)明治初期までの間は、神仏習合思想に基づき当寺が別当寺となっておりましたが、現在においては仏教(寺)・神道(神社)として、それぞれの宗教活動を行っております。

ご本尊と縁起

石碑には、「一三六八年琉球国王察度 鎮護国家の勅願寺として創建」とあった。察度は尚巴志によって三山統一される前の中山王。

那覇の護国寺の石碑

本堂へ。

那覇の護国寺の本堂1

那覇の護国寺の本堂2

案内にそって進み、中へ。誰もいない。「いいのかな?」と思いつつ、拝ませてもらった。

護国寺の本尊の聖観世音菩薩。

那覇の護国寺の本尊の聖観世音菩薩

聖観世音菩薩だけではなく、釈迦如来、大日如来、文殊菩薩、普賢菩薩、不動明王、阿弥陀如来、虚空蔵菩薩、勢至菩薩も安置されていた。

私、辰年生まれなんだけど、守護菩薩は普賢菩薩ってこと?

普賢菩薩は辰巳年生まれの守護

「宮古島島民遭難事件」の碑

ところで、その「宮古島島民遭難事件」の碑はどこだ?

護国寺の隣に、旭ヶ丘公園というものがあり、その先には、「小桜の塔」という対馬丸犠牲者の慰霊碑が建っていた。

那覇の旭ヶ丘公園

その脇に、「臺灣遭害者之墓」がひっそり建てられていた。

臺灣遭害者之墓

地図で言うと、こちら。

旭ヶ丘公園マップ

参考:対馬丸記念館から小桜の塔へ | 対馬丸記念館

「宮古島島民遭難事件」(1871年)は、沖縄の帰属問題に大きな影響を与えた「台湾出兵」(1874年)の原因になった事件。

日清修好条規の結ばれた1871年(明治4年)、琉球王国の首里王府に年貢を納めて帰途についた宮古、八重山の船4隻のうち、宮古船の1隻が台湾近海で遭難し、台湾東南海岸に漂着した69人のうち3人が溺死(1名は高齢のため脱落説あり)、台湾山中をさまよった生存者のうち54名が台湾原住民によって殺害された事件

宮古島島民遭難事件 – Wikipedia

台湾に漂着した琉球島民54人が殺害された事件の犯罪捜査などについて、清政府が「台湾人は化外の民で清政府の責任範囲でない事件(清政府が実効支配してない管轄地域外での事件)」として責任回避したので、1874年(明治7年)に明治政府が行った台湾への犯罪捜査などのための出兵

台湾出兵 – Wikipedia

台湾出兵後、日本と清国は「互換条款」を調印するが、その条文には「台湾の先住民族が日本国属民等を殺害したので、日本国政府はこの罪をとがめて彼らを征伐した」(原文はこちら)という文章が含まれていた。

遭難した琉球人は「日本国属民等」に含まれると解釈される条文だった点がポイント。

今は「沖縄は日本に属する」のは当たり前だけど、当時の琉球王国は、日本に朝貢しつつ、清国にも朝貢するという「日清両属体制」だったから。

この後、日本は「廃藩置県=琉球処分」を行うが、清国はこれを認めない。

そこで、日本は、今となっては考えられない以下の内容の琉球分割案を提示し、清国もそれに同意する。

  • 沖縄諸島以北を日本領土とする。
  • 宮古・八重山諸島を中国領土とする。
  • 上記のことを認めるかわり、1871年に結ばれた日清修好条規に、日本商人が中国内部で欧米諸国並みの通商ができるよう条文を追加(増約)する。

琉球分割案

引用:『新訂版 琉球・沖縄の歴史と文化』

その後、清国が正式調印をためらってくれたから助かったのだが、もしそのまま調印していたら、宮古・八重山は中国領土だった。

私が宮古島や石垣島、波照間島に行くこともなかったかもしれない・・・

以下の記事も参考に。

一夜明けたら宮古・八重山の人たちは中国(清国)人になっていた▼そうなりかけた歴史が126年前の1880(明治13)年10月21日に起きていた。すなわち未遂に終わった幻の日清条約のことである。同条約は廃琉置県が断行された翌年に調印された▼沖縄本島以北を日本領、先島を清国領にするという日本案。これに対して奄美以北を日本、沖縄本島は琉球国として残し、先島は清国領にするという清国案。これが当初の両国のいわゆる「改約・分島案」であったが、最終的には日本が琉球2分割案を押し通して妥結した▼驚くのは、この調印に積極的だったのが何よりも日本だったということだ。民族統一を唱える一方で、国益のために、琉球から先島を分割して清国に譲渡しようとしたのである。

一夜明けたら宮古・八重山の人たちは中国(清国)人… | 八重山毎日新聞社(リンク切れ

閑話休題。

小桜の塔の裏手は小高い山になっている。海が見えるかなーと思ったので行ってみた。

少し見えた。

旭ヶ丘公園から泊港1

旭ヶ丘公園から泊港2

美栄橋駅付近に残る長虹堤の名残

その後、『ブラタモリ 那覇』で紹介されていた「長虹堤」の名残が見られるらしい美栄橋駅へ。

これが長虹堤の名残の段差らしい。

美栄橋駅付近の長虹堤の名残

この「step by step」の裏手に「七つ墓」と呼ばれる岩山の茂みがある。この茂みは以前は海に浮かぶ島だったとのこと。島周辺の浅瀬に石垣を積み上げて長虹堤を作ったということらしい。いやはや、面白いね。

その昔、首里と那覇は海で隔てられていて、それを繋ぐ海中道路=長虹堤が造られた話は、昨日の「崇元寺の石門」も参照。

参考:那覇1泊2日旅行記 (2) 那覇の崇元寺で「長虹堤」に思いを馳せ、「鮨 井上」で晩飯

以下のGoogle Mapsの左下にある茂みが「七つ墓」。その少し右にある茂みもかつては島だったようだ。その小島にそって進む道路がかつての長虹堤の道筋だそうだ。

長虹堤の名残の道路

step by stepの前に、長虹堤について記した碑が建っているなんて知らなかった。これは「新修美栄橋碑」。全く読み取れないが。

新修美栄橋碑

碑の説明。この碑も沖縄戦をくぐり抜けたものらしい。

新修美栄橋碑の説明

この後、その「七つ墓」と呼ばれる岩山の茂みを見に行ったのだが、回りを民家が取り囲んでいて、なかなか近づける感じではなかった。

ようやくお腹空いてきた。

「やまや」でゆし豆腐そば(小)

トコトコ歩いて、リッチモンドホテル那覇久茂地すぐ近くの沖縄そば屋「やまや」に。いつも行ってるそば屋。

那覇のやまやの外観

ノド乾いた。オリオンビール!

やまやのオリオンビール

ゆし豆腐そば(小)を麺半分で。旨いのぅ。飲んだ翌日の胃にも優しいのぅ。ゆし豆腐がいっぱいで充分お腹いっぱい。

やまやのゆし豆腐そば

リッチモンドホテル那覇久茂地に戻り、急ぎ帰り支度。

タクシーで那覇空港へ。

ANA474便(那覇-羽田)をプレミアムクラスにアップグレード

17:50に空港到着。

ANAプレミアムチェックインカウンターへ。

那覇空港のANAプレミアムチェックインカウンター

スーツケースを預けて、プレミアムクラスへのアップグレードをお願いする。空席待ちのようだ。

おみやげにマンゴー2個(5,000円)を購入。子どもたちが喜ぶだろう。

搭乗口へ。優先搭乗が始まったので、アップグレードは無理だったかと思ったら、「プレミアムクラス空席待ち、Aの2番のお客さま」と呼ばれた。アップグレードできた。

プレミアムクラスの空席待ち

搭乗。しかし、マイル特典で取った席が往復ともにプレミアムクラスへのアップグレード可能だったのはラッキーとしか言いようが無い。

ANA474便のプレミアムクラス

18:50だが、まだまだ明るい。

ANA474便から見た那覇の海

Premium GOZENは帰りも遠慮した。その代わり、ビールとおつまみを。

ANA474便のエビスビールとおつまみ

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陸マイラーです。ポイントやマイルを貯めて、毎月特典旅行しています。このブログでは、マイル獲得術、旅を快適にする知識・アイテム、実際の旅行記、搭乗記などを紹介しています。

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