2020年11月、二条城近くに誕生した「HOTEL THE MITSUI KYOTO、ラグジュアリーコレクションホテル」。
その公式サイトには以下のように書かれています。
二条城至近という三井家ゆかりの地に250年以上にわたって存在した三井総領家の邸宅。その跡地に建つHOTEL THE MITSUI KYOTOには、邸宅にふさわしい悠然としたたたずまいがすべての客室に息づいています。
HOTEL THE MITSUI KYOTOは「250年以上にわたって存在した三井総領家の邸宅」の跡地に建っていると書かれています。
ところで、HOTEL THE MITSUI KYOTOの南隣には、ANAクラウンプラザホテル京都が建っていますが、その沿革にもこうあります。
明治維新後の廃藩置県を経て、旧三井財閥の三井家京都本邸となり、第二次世界大戦後の財閥解体ののち裕進観光株式会社がこの地を取得。
1963(昭和38年)より、京都全日空ホテルの前身である「二条観光ホテル」を営業しておりました。1986年(昭和61年)6月25日に開業した「京都全日空ホテル」は2011年(平成23年)6月25日開業25周年を迎えました。
現在のANAクラウンプラザホテル京都がある土地も、「三井家京都本邸」跡地とのことです。
つまり、北は二条通、東は油小路通、南は押小路通、西は東堀川通に囲まれた一画全てが「三井総領家の邸宅」跡地なのですね。
以下をご覧ください。近代京都オーバーレイマップで見た「昭和2年頃京都市明細図」です。
「北は二条通、東は油小路通、南は押小路通、西は東堀川通に囲まれた」区画に、「三井別邸」と書かれているのが分かりますね。
※「別邸」となっているのは、明治時代に三井総領家が東京に引っ越しをしたからです。
三井総領家の油小路邸の土地(現HOTEL THE MITSUI KYOTO+ANAクラウンプラザホテル京都)には、幕末、福井藩邸が置かれ、戦後の財閥解体後には三井家の手を離れます。
そんな歴史を追ってみました。
何分素人調べですので、詳しい方のアドバイスを頂けると幸いです。
目次
17世紀末に、2代目当主・三井高平がこの地に居宅を構える
三井家と二条城至近の地(油小路二条下る西側)のゆかりは、17世紀末にさかのぼります。
当地は、17世紀末頃に三井総領家の第2代目当主三井高平が居宅を構えた後、昭和中頃まで三井総領家が所有した地であり、また18世紀初頭より明治初期まで三井全体の統轄機関であった大元方も設置された、当社グループともゆかりがある地です。
1703年、梶井宮門が造営される
1703年に、後に「京都国際ホテル」と「HOTEL THE MITSUI KYOTO」の表玄関となる「梶井宮門」が造営されます。
「梶井宮(かじいみや)」とは、「京都の奥座敷」とも称される大原の天台宗寺院のことで、現在の三千院を指しています。
1698 年(元禄11年)、河原町・今出川に移設された梶井宮御殿の門として梶井宮門は造営されました。それが1703 年(元禄16 年)、今から実に300年以上も前のこと。
幕末、福井藩邸が置かれる
二条城至近の土地ということで、幕末には福井藩邸が置かれています。
子細は分かりかねますが、三井家の土地と家屋の一部を福井藩にレンタルしたということでしょうか。
HOTEL THE MITSUI KYOTOの堀川通り側に以下の案内板が設置されています。
この油小路二条下る西側(現HOTEL THE MITSUI KYOTO)の一帯には、江戸時代後期、福井藩の藩邸があった。藩邸が置かれたのは比較的新しく、天保二年(一八三一)の「京大絵図」に描かれている。藩邸は藩の京都連絡事務所で、留守居役が詰め、町人の御用掛を指定して、各種の連絡事務に当たった所である。
橋本左内寓居跡の標識もあります。橋本左内は、14代将軍を巡る将軍継嗣問題で一橋慶喜擁立運動を展開したことを井伊直弼に咎められ、「安政の大獄」で死罪になります。
大河ドラマ『西郷どん』では風間俊介、『青天を衝け』では小池徹平が橋本左内を演じていましたね。
1890年、10代目当主・三井高棟によって「油小路邸」が建て替えが始まる
1890年(明治23年)、10代目当主・三井高棟(たかみね)によって、油小路邸の建て替えが着手されます。
そのソースは、HOTEL THE MITSUI KYOTOの1階のライブラリー前の展示です。
1890年(明治23年)、10代目当主・三井高棟によって建て替えに着手された「油小路邸」庭園と居宅が調和した池泉回遊式邸宅で、その空間には文化・芸術に通じた高棟の見識と美意識が色濃く反映された。
「公益財団法人 三井文庫」提供の写真も掲載されていました。いつ頃の写真かは不明です。
同じく「公益財団法人 三井文庫」提供の平面図も掲載されていました。
なお、1952年に、第11代当主・三井高公(たかきみ)によって麻布笄町(現港区西麻布3丁目)に建設された「八郎右衞門邸」の1階の客間と食堂には、この油小路邸の奥書院の部材が使用されているとのことです。
1階の客間と食堂には京都・油小路三井邸の奥書院の部材を使用。油小路邸には高棟自らも設計に関わっており、高公は油小路邸の一部を西麻布邸に移築するに当たって、高棟の意匠も移すべく努力した。窓や欄間には桂離宮の意匠を取り入れ、櫛型窓や四季を題材とした襖などに油小路邸の面影が残っている。
三井高公の死後、「三井八郎右衞門邸」は、「江戸東京たてもの園」に移築され、一般公開されています。
1935年、梶井宮門が油小路邸に移築される
1935年、梶井宮門が油小路邸に移築されます。
ソースは、同じく、HOTEL THE MITSUI KYOTOの1階のライブラリー前の展示です。
右は、1935年(昭和10年)、この門が油小路邸に移築された際に新たに誂えられた箱。建立から二百余年を経て北三井家へと継承されたことが分かる貴重な一次資料である。
1961年、藤田観光が京都国際ホテルが開業する
戦後、GHQの方針により、三井を含む四大財閥は解体されます。
三井財閥最後の日は、昭和20年(1945)10月21日であった。綱町の三井別邸で三井十一家の同族会議が開かれ、全員一致で解散を議決。延宝元年(1673)に三井高利が江戸本町に三井越後屋呉服店を開いて以来、272年の歴史が閉じられた瞬間であった。
1947年には、三井家は「財閥家族」に指定され、資産が凍結されます。
その後、藤田観光は三井家の「油小路二条下る西側」の土地の北側を取得。
1961年、京都国際ホテルを開業します。
以下は1960年代中頃に発行された京都国際ホテルのパンフレットです。油小路邸の梶井宮門を継承し、表玄関として利用していることが分かります。現在と位置も変わっていないようです。
京都国際ホテルの設計者は吉村順三です。
同じ藤田観光グループの「ホテルフジタ京都」(1970-2011)も吉村順三が設計。
ホテルフジタ京都の跡地に建っているのが、リッツカールトン京都です。
リッツカールトン京都のアプローチの灯籠、レストラン「水暉」や地下プールから見える滝石などは、ホテルフジタから継承されています。
マリオットは、藤田観光の歴史的建造物の保存の努力に感謝しなければいけませんね。
1963年、裕進観光が二条観光ホテルを開業
財閥解体の後、裕進観光が「油小路二条下る西側」の土地の南側を取得。
1963年、二条観光ホテル(京都全日空ホテルの前身)を開業します。
2014年、阪急不動産が藤田観光から土地を取得
2014年12月、京都国際ホテルは営業を終了。「油小路二条下る西側」の北側の土地は阪急不動産に売却されます。
京都国際ホテルは、藤田観光(東京都文京区)が昭和36年に開業。敷地面積が約7500平方メートルで好立地だったが、施設の老朽化などを理由に営業を終了。昨年12月に阪急不動産に売却していた。
二条城前にマンションは困る… 「京都国際ホテル」跡地はホテルに、京都市が異例要望書を阪急不動産に(1/2ページ) – 産経WEST
2015年、三井不動産が阪急不動産から土地を取得
阪急不動産はマンション開発を計画していましたが、京都市がホテル誘致を要望したため、断念。
京都国際ホテル跡地をめぐっては、阪急不動産が26年12月、藤田観光からマンション建設を目的に取得。しかし、京都市が27年1月に「国際観光都市にふさわしいホテルの誘致を切望する」という異例の要望書を出したため、阪急不動産が跡地を三井不動産へ転売した経緯がある。
「油小路二条下る西側」の北側の土地は三井不動産に売却されます。
2020年、HOTEL THE MITSUI KYOTO開業へ
「250年以上にわたって存在した三井総領家の邸宅跡」の土地の「北側」を手に入れた三井不動産は、2020年11月3日に「HOTEL THE MITSUI KYOTO、ラグジュアリーコレクションホテル」を開業させるというわけですね。
「二条城至近という三井家ゆかりの地に250年以上にわたって存在した三井総領家の邸宅。その跡地に建つHOTEL THE MITSUI KYOTO」
というキャッチコピーの意味が理解できましたね。
HOTEL THE MITSUI KYOTOの「ガーデンビュールーム」のとある一室に泊まると、視界がANAクラウンプラザホテル京都」ビューです。
三井不動産が、「250年以上にわたって存在した三井総領家の邸宅跡」の土地の「南側」を手にする日はあるでしょうか。
オープンしたばかりの「HOTEL THE MITSUI KYOTO」の滞在記もぜひご覧ください。