宮下公園跡地に誕生した「sequence MIYASHITA PARK」に泊まったのをきっかけに、「宮下」という地名の由来について調べてみました。
面白いことが分かったので紹介します。
目次
「宮」の付く地名はたいてい「神社」由来だが・・・
全国に「宮」の付く地名はたくさんあります。
ほとんどの場合、「神社」由来です。
例を挙げます
うちの近所に世田谷線の「宮の坂」という駅がありますが、「世田谷八幡宮」の脇の坂道に由来します。
文京区本郷5丁目には「宮前広場」と呼ばれる印象的な六叉路があります。近所に神社はありませんが、かつてこの地にあった(初代・本多平八郎忠勝を祀る)「映世神社」が名前の由来です。
町内の四分の三は旧岡崎藩本多家下屋敷(一番地)が占めた。映世神社は本多家の祖本多忠勝を祀る神社で、同社の前を宮前、後ろを宮裏とよんでいた。
出典:『東京都の地名 日本歴史地名体系13』(平凡社)
渋谷駅から青山通りに上がる坂道は「宮益坂」と呼ばれますが、こちらも坂の途中にある「御嶽(みたけ)権現」にちなんで付けられた名前です。
元禄一一年(一六九八)代官支配となって同一三年鎮守の御嵩権現にちなんで宮益町と改称。
出典:『東京都の地名 日本歴史地名体系13』(平凡社)
それでは、宮益坂ともそう遠くない「宮下公園」の「宮下」も、近くにある(もしくは、近くにあった)神社に由来するのでしょうか?
「宮下公園」の「宮下」の由来は、梨本宮邸
『東京人』2005年5月の今尾恵介氏による「失われた地名を手がかりに東京街歩き。」には、以下のように書いてありました。
山手線が見えてくると、駐車場にフタをした形の宮下公園に出る。できた当時は「東京初の空中公園」と話題になったらしい。この公園もやはり旧町名の宮下町(昭和四一年廃止)に由来するが、宮下とは「梨本宮邸の下の区域」だから。宮邸は実に広大で、戦前の地形図を見るとざっと五ヘクタールはあるだろうか。宮下町の東側の丘の上は美竹町。つまり梨本宮邸があった場所である。美竹とは縁起を担いだ「瑞祥地名」に思えるが、実は町内の御嶽神社にちなむ。
「宮下公園」の「宮」は梨本宮に由来するとのことです。
宮下パーク商店街のページにも同様のことが書かれています。
命名の由来は皇族梨本宮邸の下の区域であることによる。
梨本宮は、明治3年に創設された新しい宮家です。
「今昔マップ」で1896年~1906年の地図を確認してみると、この時点で梨本宮邸との表記を確認できます(下図中心部)。
日文研の所蔵地図データベースの「東京府豊多摩郡澁谷町平面圖」(リンク切れ)(1926年)では、より詳細に梨本宮邸の区画を確認することができます。
恐らく、梨本宮邸から北西方向に伸びる道路が現在の「美竹通り」ではないでしょうか。
正式に「宮下町」という名前が成立する
日文研の所蔵地図データベースの「東京府豊多摩郡澁谷町平面圖」(1926年)によれば、現在、宮下公園がある場所は、東京府豊多摩郡渋谷町の「上渋谷」(大字)「町裏」(字)という地名であったことが分かります。
渋谷区立図書館の「渋谷区の町名・地番変遷」によれば、昭和3年1月1日施行の大字・小字区域名称変更・地番変更により、
渋谷町の、
- 上渋谷・町裏
- 中渋谷・宇田川
- 青山北町七丁目
が渋谷町の「宮下」に変更され、さらに、昭和7年10月1日施行の渋谷区成立によって、東京市渋谷区「宮下町」に変更されたことが確認できます。
昭和7年10月1日施行の渋谷区成立による新町名 | 旧町名 | 渋谷区成立以前の渋谷区域の町名・大字・小字名 | |
東京市渋谷区 | 東京府豊多摩郡 | ||
昭和3年1月1日施行渋谷町の大字・小字区域名称変更・地番変更 | 渋谷町 | ||
大字 | 小字 | ||
宮下町 | 宮下 | 上渋谷 | 町裏 |
中渋谷 | 宇田川 | ||
青山北町七丁目 | – |
「宮下」という地名は今までなかったのですが、梨本宮邸の存在によって、昭和3年に初めて「宮下」という地名が正式に誕生したのですね。
渋谷区「宮下町」のその後
1945年5月26日、空襲によって、梨本宮邸は全焼します。
太平洋戦争後の1947年10月、梨本宮を含む11宮家は皇籍離脱(臣籍降下)。平民となります。
そして、1962年5月10日に施行された「住居表示法」により、1965年3月1日に「宮下町」の一部が神宮前六丁目、1966年4月1日に「宮下町」の残りの一部が渋谷一丁目と変更され、「宮下町」という地名は消滅しました。
明治に創設された梨本宮の邸に由来する「宮下町」という地名は、宮家の消滅から19年後、歴史上から消えることになるわけですね。
しかし、宮下公園(ミヤシタパーク)にその名を留めることになります。
梨本宮邸は江戸時代に何があった場所?
ところで、梨本宮邸の広大な敷地。
江戸時代には、何があった場所なんでしょうか?
「古地図 with MapFan」で確認すると、山城国淀藩・稲葉家の下屋敷跡地であることが分かりました。
梨本宮邸も相当な広さですが、淀藩・稲葉家の下屋敷は、現在の国連大学やかつての「こどもの城」の敷地も含み、その広さは梨本宮邸の3倍程度あったようです。
以下は、国立国会図書館デジタルコレクションの「〔江戸切絵図〕. 青山渋谷絵図」の一部を拡大したものです。稲葉家の下屋敷、宮益町という表記、金王八幡宮、(見づらいですが)御嶽神社も確認できます。
青山通りを挟んで反対側の伊予国西条藩・松平家の上屋敷は、現在の青山学院大学キャンパス。
※江戸切絵図の場合、家紋は上屋敷、■は中屋敷、●は下屋敷を意味します。
梨本宮邸ができる前は開拓使の「東京官園」
更に調べると、面白いことが分かりました。
淀藩・稲葉家の下屋敷跡に梨本宮邸ができる前に、開拓使の「東京官園」があったのです。
「官園」とは、開拓使が北海道および東京府に設置した、農業に関する試験・普及機関のことです。
開拓使は明治二年七月設置されたものであるが、同四年九月、青山南町七丁目一番地松平頼英邸三万七〇六六坪、同北町七丁目二番地稲葉正邦邸五万坪、麻布新笄町一四番地堀田正倫邸四万七五〇六坪を開拓使用地とし、南町を第一、北町を第二、新笄町を第三官園と称した。その設置の目的は、動植物の良種を外国から購入し、直ちに北海道に移植しても風土の適否がわからないので、まず、東京で試育し、その適否を試験したのち、七重試験所に移し漸次北海道全道に及ぼすというものであり、また、西洋農具使用により牧畜樹芸を生徒に伝習させ、卒業後七重試験場に派遣させて全道農業の模範たらしめることにあった。
『港区/デジタル版 港区のあゆみ』によれば、淀藩・稲葉家の下屋敷跡地だけではなく、(青山通りを挟んで)対面の西条藩・松平家の上屋敷も「東京官園」となっていたようです。
ヱビスビール記念館 館長の端田晶氏が、この東京官園とサッポロビールのつながりを紹介しています。上の画像も下記ページより引用させていただいてます。
参考:国産ビール開発にかけた情熱 ~ 青山キャンパス秘史 | アオガクプラス
2号官園の場所が淀藩・稲葉家の下屋敷跡。1号官園の場所が西条藩・松平家の上屋敷。
サッポロラガービールの「赤星」が開拓使の旗(北辰旗)に由来することは有名ですね。
ビール缶に記載された「SINCE 1876」も、札幌に開拓使麦酒醸造所が設立された年です。
まとめ
まとめます。
宮下公園の「宮下」の由来を調べたら、面白いことが分かりました。
江戸時代に淀藩・稲葉家の広大な下屋敷跡があった場所に、明治維新後、開拓使による「官園」が開かれ、「官園」が廃止された後、その土地の一部が「梨本宮邸」となったこと。
「宮下」という地名は、その「梨本宮邸」に由来することです。
興味がお有りでしたら、宮下公園跡地に誕生した「sequence MIYASHITA PARK」の宿泊記もご覧ください。