ニューオータニホテルズ

彦根藩・井伊家の上屋敷・中屋敷・下屋敷はどこにあった?

江戸切絵図 桜田門

1635(寛永12)年、徳川家光は「武家諸法度」を発布して、「大名、小名在江戸交替所相定也、毎年四月中可致參勤」という「参勤交代」を義務付けました。

大名が江戸にいる時の住居として建てたのが藩邸です。土地は幕府から拝領しています。

以下、「江戸切絵図」を用いながら、彦根藩・井伊家の江戸の「上屋敷」「中屋敷」「下屋敷」の場所を紹介します。

上屋敷 家紋 家紋の刷ってある所が表門。大名の常住公邸で、登城の便を考えて、主に西丸下、大名小路、外桜田周辺に集中的に配置されていた。
中屋敷 ■印のある位置が表門。隠居藩主、嗣子等の常住屋敷で、御城の外濠の内側に沿った場所に多くあり、上屋敷の災害時の避難場所となる。また、花見や月見などの宴遊に使われた。
下屋敷 ●印のある位置が表門。郊外の別邸で、景色の勝れた所や辺鄙な所にあり、自家菜園もあった。江戸湾頭の海岸のある下屋敷は、国許からの物資の荷揚場を兼ね、蔵もあった。

引用元:『切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩』(人文社)

上屋敷

江戸切絵図 桜田門

引用:国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 外桜田永田町絵図

上の「江戸切絵図」で、「井伊掃部頭」と書かれている場所が、彦根藩・井伊家の「上屋敷」があった場所です。

井伊家の家紋「彦根橘」が描かれていますね。その場所が表門です。

彦根橘

では、どんな表門だったのか?

以下は、安政3年(1856年)、歌川広重の「名所江戸百景 外桜田弁慶堀糀町」です。

外桜田から弁慶堀(桜田濠)・麹町方面を望の構図です。赤い門が、井伊家上屋敷の表門です。

外桜田弁慶堀糀町

引用:国立国会図書館デジタルコレクション – 名所江戸百景 外桜田弁慶堀糀町

この上屋敷、現在の「憲政記念館」がある辺りです。彦根藩・井伊家の「上屋敷」となる前は、加藤清正の屋敷があったようですね。

当館のある高台は、江戸時代の初めには加藤清正が屋敷を建て、その後彦根藩の上屋敷となり、幕末には藩主であり、時の大老でもあった井伊直弼が居住し、後に明治時代になってからは参謀本部・陸軍省がおかれました。

憲政記念館について

「切絵図」の「上屋敷」の右上に「櫻田御門」とありますが、これが有名な「桜田門」です。

安政7年3月3日(1860年3月24日)、井伊直弼は上屋敷から桜田門に向かう途中で遭難したのですね。

余談ですが、〔江戸切絵図〕. 外桜田永田町絵図 – 国立国会図書館デジタルコレクションの外堀の虎ノ御門(虎ノ門)付近をご覧ください。「真田信濃守」と書かれ、六文銭が刷られている場所がありますね。『真田丸』の真田家の上屋敷です。真田信之は「伊豆守」でしたが、八代・幸貫(ゆきつら/松平定信の次男)の時に「信濃守」に格上げされています。

中屋敷

江戸切絵図 彦根藩井伊家中屋敷

上の「江戸切絵図」の「■井伊掃部頭」と書かれている場所が、彦根藩・井伊家の「中屋敷」があった場所です。隠居した当主や成人した跡継ぎが住んだと言われています。

現在の「ホテルニューオータニ」がある場所です。

ホテルニューオータニ

ホテルニューオータニ日本庭園の歴史は、400年以上前からの記録が残されています。

江戸時代初期、この地には、 朝鮮で虎退治をしたという伝説で知られる武将、加藤清正の下屋敷がありました。そして二代・忠広の時に加藤家が改易になったのを機に、この屋敷は井伊家へと引き継がれ、幕末まで中屋敷として使用されました。

歴史|ホテルニューオータニ

日本庭園内には、井伊家の中屋敷時代から生育していたと推定されるカヤ、イヌマキも残っていますよ。

井伊家の「上屋敷」も「中屋敷」も、元は加藤家の屋敷跡だったのですね。

加藤家は二代・忠広(加藤清正の子)の代で改易されていますから、その江戸藩邸を井伊家が継いだ形になりますね。

ところで、井伊家の「中屋敷」に隣接して、紀伊徳川家の中屋敷、尾張徳川家の中屋敷がありますね。

三家の間を通る坂は、紀伊徳川家の「紀」、尾張徳川家の「尾」、井伊家の「井」のそれぞれ一字ずつを取って「紀尾井坂」。現在も紀尾井町という町名が残っています。ホテルニューオータニの住所も千代田区紀尾井町4-1です。

下屋敷

主に別邸として、江戸城から離れた郊外に建てられたのが「下屋敷」です。

藩によって様々な用途に使われたようです。

彦根藩・井伊家の「下屋敷」は2箇所ありました。

江戸切絵図 彦根藩井伊家下屋敷1

上の「江戸切絵図」の「●井伊掃部頭」と書かれている場所が、彦根藩・井伊家の「下屋敷」があった場所です。逆さに書かれているので分かりづらいですが。

現在は、明治神宮の神域になっています。

井伊家の「下屋敷」ができる前は何があったかですが・・・

 「清正の井」のあるこの地は江戸時代、加藤家の下屋敷があり加藤清正の子忠広が住んでいたことは間違いないようですが、清正本人が住んでいたかは定かではありません。まもなく加藤家が絶え、その後井伊家の下屋敷となりました。

明治神宮-Q&A-(リンク切れ)

なんと、上屋敷も中屋敷も下屋敷も、元は加藤家の屋敷だったのですね!

思わぬ発見でした。

もう一つは、以下の「江戸切絵図」の「●井伊掃部頭」と書かれている場所です。現在の早稲田大学内の大隈庭園がある土地です。ここはさすがに加藤家とは何の関係もないようでした。

江戸切絵図 彦根藩井伊家下屋敷2

引用:国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 大久保絵図

抱屋敷

幕府から拝領する土地に建てられた「上屋敷」「中屋敷」「下屋敷」とは異なり、民間(百姓・町人)の所有する土地を購入して建築した屋敷もありました。「抱屋敷」(かかえやしき)と言われます。

彦根藩・井伊家に「抱屋敷」があったのかは調査中です。

なお、世田谷区若林の地には、長州藩の「抱屋敷」がありました。吉田松陰を祀る松陰神社が世田谷区若林にあるのもそのためです。

世田谷には、彦根藩の「飛び地」がありました。井伊家の菩提寺の豪徳寺があるのも、その「彦根藩世田谷領」です。

この「彦根藩世田谷領」と長州藩の「抱屋敷」はごく近接していたため、吉田松陰の眠る松陰神社と井伊直弼の眠る豪徳寺が、この広い世田谷で「谷一重のさし向い」に位置するという因果となります。

井伊と吉田、五十年前には互に不倶戴天の仇敵で、安政の大獄に井伊は吉田の首を斬れば、桜田の雪を紅に染めて、井伊が浪士に殺される。斬りつ斬られつした両人も、死は一切の恩怨を消してしまって谷一重のさし向い、安らかに眠っている。

引用:徳富蘆花「謀叛論」

彦根藩・井伊家の居城「彦根城」に行ってみた

以下は、彦根藩・井伊家の居城「彦根城」を訪れた時の旅行記です。

よかったらご覧ください。

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陸マイラーです。ポイントやマイルを貯めて、毎月特典旅行しています。現在はコロナで停止中。このブログでは、マイル獲得術、旅を快適にする知識・アイテム、実際の旅行記、搭乗記を紹介しています。

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